mikarn777’s diary

歌詞や小説、時々日記など載せていきます。

シャルル【仮】第1話

弱肉強食、という言葉がある。

 強きものが弱きものを糧とし、更に強きものの糧となる。そうして弱きものは搾取され、強きものは栄えていく。

 だが、強きものもいずれ死を迎える。そして土に還り、弱きものの糧となる。生きとし生けるすべての命は循環していくのだ。

 その輪の中で、最も強きものとは何か。

 百獣の王である獅子か。高き空を統べる鷹か。海の全てを食い尽くす鯱か。

 否。それらよりも弱く、愚かでありながら、強者を騙る存在がいる。

 それが我々、人間だ。蛇に唆され、神の知恵を盗んだ存在。自らを神に近い存在と錯覚している小さな者達。

 自然を開拓し、弱きものを捕らえ食らい、個を増やしていく。生物としての自然な営みではあったが、身に余る知恵を手に入れた人間のそれらは、傲慢以外の何物でもなかった。

 当然、神が許す筈もない。創造主は、人間の手で歪められた世界の調和を整えるものを新たに造り出した。純粋な力による秩序の担い手を。

 それが、鬼という存在である。

 鬼がいつ、どのように生まれたのかは誰も知らない。だがある日突然現れ、彼らは人を食らった。自らが食物連鎖の頂点であると驕っていた人間を、食物としたのである。まさに天敵と呼ぶべき存在であった。人々は鬼から隠れ、いつ食われるかわからない日々に怯えた。

 そこで自分達が弱きものであることを認め、慎ましく生きていくという選択肢もあった。自分達は大いなる命の輪の一部に過ぎないのだと自覚し、傲慢であったことを悔いることもできた。

 だが人間達は、一度得た強きものとしての地位を手放すことなど出来なかった。そして知恵を使い、小賢しく生き残ることを選んだ。

 鬼に生け贄を差し出すことにしたのだ。

 鬼にしてみれば、人間は吐いて捨てるほど存在しているのだから、食うに困ることなどない。生け贄の話を持ち出したのは人間だった。年に一度、それぞれの村が肉質の良い人間を捧げる。そうすることで、村の人間は守られた。村の外に住む盗賊や旅人は食われるが、それは村にとってはどうでも良いことだった。他者が犠牲になろうとも、自身が生き残るのであれば、それで良かったのだ。

 生贄を捧げるようになってから百余年。人々は鬼に怯えながらも、見かけ上の平穏な日々を過ごしていた。

 人間にとって百年という年月は決して短くはない。そのうちに、何故生贄を捧げるようになったのか、その経緯は忘れられた。始まりは自分達の愚かさだったにもかかわらず、一方的な鬼への憎しみと、神に理不尽を嘆く声だけが残った。

 それほどまでに、人間とは身勝手な生物だった。

 

 

「さようなら」

 

 夕焼けを映して煌めく小川の辺で、彼女はそう言い残して去っていった。

 呆然と立ち尽くす頭の中で、彼女の言葉がぐるぐると回る。

 もう貴方とは一緒にいたくない。

 会いたくもない。

 放っておいてほしい。

 さようなら。

 一方的に拒絶の言葉をぶつけられ、何が何だかわからないまま、きらきらと光る水の流れを見つめている。

 彼女の頬にも、一筋の光があった。

 その涙の意味はわからない。だが、憤りや嫌悪といった感情によって流れたものにしては、あまりにも美しかった。ほんの一瞬、見惚れてしまうほどに。

 私は川縁に腰を下ろし、赤く染まった空をぼんやりと見上げた。

 あれは彼女の本心だったのだろうか。何故か自分にはそう思えなかった。きっと、事情があるに違いない。そう思いたかった。昨日まで愛し合っていた女性に、突如別れを告げられたのだ。簡単に受け入れられる筈もない。

 明日、もう一度彼女に会おう。私はそう決めて立ち上がった。もしあの言葉が彼女の本心だとしても、彼女にそう思わせてしまうような何かがあった筈だ。一緒にいられないのなら、せめてそれだけでも謝りたい。

 翌日、私は村の南通りにある彼女の家を訪れていた。彼女が好きな、マーガレットの花束を手にして。

 深呼吸をして、扉をノックする。返事はない。続けて彼女の名前を呼ぶ。すると、中で人が動く気配がした。

 私は縋るように扉に張り付き、再び彼女の名を呼んだ。

 

「頼む、話をさせてくれないか」

 

 懇願するが、返事はない。

 彼女との言葉を交わさない時間が、私は好きだった。教会裏の木陰で。村外れにある花畑で。川沿いの草むらで。草木の揺れる音や水のせせらぎ、虫の声に耳を傾けながら彼女と過ごす時間は、何物にも代えがたい至福の時だった。

 だが今は、重苦しい沈黙が二人を隔てている。

 耐え切れず、私は矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。

 

「君が一緒にいたくないというなら、それに従うよ。ただ、理由を教えてくれないか。君を傷つけたのなら、その償いだけはさせて欲しいんだ」

「……帰って」

 

 扉のすぐ傍で、絞り出すような声がした。その声音は愁いを帯びているように思えたが、同時に強い拒絶の意思を持っていた。

 私は察して、扉から離れた。

 もしかしたら、彼女の本意ではない、私と離れざるを得ない事情があるのかもしれない。本当は、まだ私を愛してくれているのかもしれない。だが、最早真実を知ることに意味はなかった。

 どんな理由であれ、彼女は拒絶という選択をとったのだ。それを覆す術は、私にはないのだろう。

 私は「すまない」と小さく呟いて、彼女の家を後にした。

 

 家路につく気にもならず、花束を抱えたまま、私は小高い丘を登った。

 村を見下ろすように建てられた教会に立ち寄ると、椅子に座ってぼんやりと辺りを見回す。

 数えるほどしか人がいない礼拝堂の隅に、一組の男女が座っている。愛を語らっているのか、二人の顔には幸せそうな笑みが浮かんでいた。

 一昨日までは、私と彼女もああやって笑っていたのに。

 そう思うと、ぎゅうと胸が締め付けられた。ようやく、もう彼女に会えないのだという実感が湧いた。ただひたすら虚無感に襲われる。

 どうやら自分で思っていた以上に、彼女の存在は私の心の多くを占めていたらしい。胸にぽっかりと穴が空いたようだった。彼女以外にこの穴を満たしてくれる存在がいるとは、到底思えなかった。

 その時、背後の椅子に座る二人の老女の会話が聞こえてきた。聞く気はなかったが、放心していた私の耳には、否応なしに彼女達の声が滑り込んできた。

 

「今年は誰だって?」

「ほら、南端の家の……」

「ああ、鍛冶屋の手伝いをしている娘だね。可哀そうに」

「若いもんを犠牲にして、儂等年寄りが長生きするなんてねえ」

「しょうがなかろうよ。骨と皮しかない儂等じゃあ腹の足しにもならんのじゃろうて」

 

 ぼそぼそと流れていく老女達の言葉に、私はふと我に返った。

 南端の家に住む、鍛冶屋の手伝いをしている娘。それは彼女のことだ。

 今年は――

 若いもんを犠牲にして――

 腹の足しにも――

 頭の隅に引っかかったそれらの言葉が、ぐるぐると回る。

 そして私は、ひと月後に何があるのかを思い出した。

 春のはじめ。夏の豊穣と村の平和を祈る、大切な祭り。

 その祭りでは、若い村人の中から生贄が選ばれるのだ。

 私は立ち上がり、司祭の部屋へ走った。

 

「司祭様!」

 

 勢い良く扉を叩くと、中から驚いた様子で司祭が出てきた。

 

「どうしたのかね」

「豊穣の祭りの、生贄のことです!」

「……そうか、聞いてしまったか」

 

 司祭は神妙な面持ちで呟いた後、私を部屋の中に招き入れる。

 

「ひとまず座りたまえ。紅茶を淹れよう」

「結構です」

 

 断って、私は椅子に座る。

 何故忘れていたのだろう。昨年のこの時期には、選ばれなかったことに胸を下ろしていたのに。

 忘れていられるほどに、生贄という悪しき風習は私達にとって当たり前のものとして存在していたのだ。

 

 

 村の北にある森の奥に、古く崩れた城がある。

 どの時代のものなのか、誰が建てたのかもわからない小さな古城。

 そこにいつからか、鬼と呼ばれる怪物が棲むようになった。

 実際に鬼を見たことがある村人は数えるほどしかいない。基本的に、鬼は森から出てこないからだ。しかし、村の誰もがその存在を知っている。

 

『勝手に森に入ってはいけない。鬼に食べられてしまうからね』

 

 子供の頃、祖母に何度も聞かされた戒め。村の子供達は、必ず大人から鬼の話を聞かされる。

 鬼は人と同じくらいの大きさで、人と同じように二足で歩くが、人よりもずっと力強く狂暴なのだという。人の言葉を話すが、人の理は通じない。人に似て非なるもの。そして、恐ろしいことに――鬼は人を食らうのだ。

 そんな鬼から村を守るため、豊穣の祭りでは一人の生贄が選ばれる。

 年に一度、肉質の良い人間を献上する代わりに、鬼は村を襲わない。森に入りさえしなければ、村の人々の平和は守られる。同じように近隣の五つの村も、この時期になると鬼に生贄を捧げる。いずれも健康的な若者で、時にはまだ幼い子供が生贄となることもあった。

 祭りのひと月前に、その年の生贄が皆に告げられる。生贄に選ばれた者は祭りまでの間、教会で過ごす。生贄に相応しい、清らかな体に――鬼にとって御馳走となるような肉にするため、丁重にもてなされるのだ。その間、生贄は世話役となる村の老人達以外との接触が一切禁じられる。

 生贄に選ばれる者は、身寄りのない者が多い。二年前に母親を亡くし独りとなった彼女が選ばれるのは、端から見れば順当といったところだった。

 だが、心のどこかでそんな日は来ないと無根拠に思っている自分がいた。彼女と二人慎ましく暮らし、子を儲け、のんびりと年を取っていく。そうした未来が待っていると、当たり前のように思っていたのだ。

 それなのに。

 

「私が代わります」

 

 口を開こうとしない司祭に、私は言った。

 だが司祭は、それはできないと首を振る。

 

「何故ですか? 私は特に病気もしていないし、生贄として問題はないはずです」

「そういう問題ではない。神が、あの娘を生贄に選ばれたのだ。その運命を変えることは許されない」

「神が何だと言うのです!」

 

 思わず私が叫ぶと、司祭は顔を強張らせた。外の者に聞かれるのを恐れたのか一瞬扉に目をやったが、すぐに私に向き直り、何ということを、と呟く。

 

「滅多なことを言うものでない」

「だって、そうでしょう。我々が鬼に怯え嘆いているのを、神は黙って見ておられるだけではないですか。救いの手も差し伸べてくれぬというのに、何故神を崇め、そのお言葉に従わねばならぬのですか!」

「人がそのように傲慢だから、神は鬼という存在をお創りになったのだ。それを忘れてはならん」

 

 窘めるように司祭は言うと、両手を組み、神に非礼を詫びる言葉を繰り返す。

 その姿を見ていると、私の中で怒りがふつふつと湧いた。

 ここで私が嘆こうが、怒りをぶちまけようが、彼女がひと月後に生贄として捧げられることは決して変わらない。この村にとって、豊穣の祭りで行われる生贄の儀式は何よりも大切なものだ。それを汚すようなことは決して許されない。

 何よりも憤りを感じたのは、それを疑いもせず、「仕方がないことなのだ」と心のどこかで既に納得してしまっている自分自身だった。 

 

「身寄りのない弱き者を犠牲に生き永らえ、それを神の意志であると嘯く。確かに、傲慢以外の何物でもないでしょうね」

 

 吐き捨てるように言い、席を立つ。

 司祭はそんな私を黙って見つめていたが、部屋を出ようとした時、背後から声をかけられた。

 

「遺される者は辛いが、遺してゆく者もまた辛いのだ。お前にできることは、彼女の思いを汲んでやることではないかな」

 

 私は答えなかった。

 司祭の部屋を出ると、先程の男女と目が合った。二人は悲しげな表情で私を見ている。

 私と彼女に、自分達の未来を重ねて怯えているのか。或いは、昨日までの私のように、自分達が引き裂かれることはないと根拠もなく信じているのか。

 その憐れむような視線から逃げるように、私は教会を後にした。

 

 

 日が落ちてきた道を歩きながら、彼女が流した涙を思い出す。

 自分が生贄に選ばれたと知って、彼女は別れを切り出したのだろう。そうすることで、遺される私の痛みを少しでも和らげようとしてくれたのだと思う。私から離れ、鬼に食われるという恐怖と一人で戦おうとしていたのだ。それ程までに、彼女は優しい人だった。

 だがそれならば、私は真実を打ち明けて欲しかった。生贄として教会に幽閉されるまでの残りの数日を、共に過ごしたかった。

 ふと、教会に花束を忘れたことを思い出す。

 昔、彼女が好きだと教えてくれた花。

 マーガレットには、〝私を忘れないで〟という花言葉がある。

 

『私がいなくなっても、忘れないでくれる?』

 

 母親を亡くした後、彼女はそう言った。頷く私に、彼女は嬉しそうに微笑んでいた。

 もしかしたら、彼女はあの頃から、こうなることを覚悟していたのかもしれない。そうした彼女の思いも知らず、私だけが、のうのうと日々を生きていたのだろうか。

 そんなことを考えていると、いつの間にか私は再び彼女の家に来てしまっていた。

 部屋に灯りはないが、この状況で外出しているとも思えない。私はそっと扉に近づき、彼女の名を呼んだ。

 

「……生贄の話、聞いたんだ」

 

 そう言うと、彼女が動く気配がした。

 

「君は、僕に嫌われようとあんな言い方をしたんじゃないか。少しでも僕が、君がいなくなることを悲しまないように。もしそれが僕の自惚れだというなら、このまま去るよ。でも、もしそうじゃないのなら――もう一度だけ、君に触れたいんだ」

「……会いたくないって言ったのは、本当よ」

 

 泣いていたのだろう、鼻詰まった声だった。だが昨日に比べると、多少の落ち着きを感じられる。

 

「母が死んだ時、すぐに私の番がくると思った。だからもう覚悟はできてるの。貴方との幸せな思い出もたくさんあるから、もういいの。でも、これ以上貴方といると、その覚悟が揺らいでしまう。一緒にいるほど、辛くなる」

 

 わかってほしい、と彼女は呟く。彼女の〝覚悟〟はあまりにも重く、私はとっさに言葉を返すことができなかった。

 生贄に選ばれることは、名誉であるとされている。

 皆のためにその命を捧げ、神のお傍に行くことができる。そうした考えから、人々は表向きは生贄を祝福する。そして生贄自身も、選ばれたことを喜ぶべきであるとされるのだ。それが村の中にある、暗黙のルールだった。

 つまり彼女は、死への恐怖を無理やり飲み込み、鬼に食われることを笑顔で受け入れる――その覚悟をしたというのだ。

 私は司祭の言葉を思い出す。

 彼女の思いを汲むのであれば、ここで引き下がるべきなのだろう。私もまた、恋人を見送り、その命を犠牲に生き延びる覚悟をすべきなのだ。

 しかし。

 

「ここには誰もいない。司祭様も、村人達も。だから、本当の気持ちを話してくれないか」

 

 自己満足にすぎないことは十分に分かっている。

 それでも、彼女の本当の気持ちが聞きたかった。

 長い沈黙。

 やがて彼女がぽつりと、死にたくない、と呟いた。

 

「死にたくない。私、貴方ともっと一緒にいたい。毎日二人で笑っていたい。結婚して、子供を産んで、幸せに暮らしたい。おじいちゃんおばあちゃんになって、手をつないで散歩して――最後まで、一緒にいたい」

 

 堰を切ったように溢れ出した言葉は、徐々に嗚咽を含んで聞き取れなくなっていく。私も涙が止まらなかった。

 過ぎたことを望んでいるわけではないだろうに。ただ二人、苦しみや困難があろうとも、共にいられれば良いのに。

 何故神は、それを許してくださらないのか。

 しばらくの間声を上げて泣いていた彼女だったが、徐々に落ち着きを取り戻し、しゃくり上げながら言葉を紡ぐ。

 

「何があろうと、私が生贄として死ぬことに変わりはない。でも、いいの。そうすることで、貴方の命を救うことができるんだもの」

「君がいない世界で生きることに意味はないよ。それに、すぐに僕も生贄になるかもしれない」

「そうね。いつかは貴方も選ばれるのかもしれない。それでも、一年でも貴方が長く生きてくれれば、それでいい」

 

 どこかすっきりした様子で彼女は言う。

 私はもう一度だけ扉を開けて欲しいと頼んだが、やはり彼女は断った。彼女の覚悟は、到底私に覆すことができるようなものではなかった。

 

「さようなら」

 

 再び別れを告げる彼女に、私はすべての思いを吞み込んで、震える声で別れを返した。

 

 

 家に帰ると、祖父母は既に就寝していた。

 幼い頃に両親を亡くした私は、祖父母と共に暮らしている。二人が天に召されれば、私も生贄の候補となるのだろう。

 私は暖炉脇の椅子に座り、声を殺して泣いた。

 彼女はずっと、この時がくることを覚悟していた。何気ない話をして笑っていた時。二人で肩を寄せ合っていた時。些細な喧嘩をした時。一つ一つの思い出の中にいる彼女は、それを微塵も感じさせなかった。隣で何も知らずに暢気にしていた私を、彼女はどんな思いで見つめていたのだろう。

 何故神は、私と彼女の運命をこのように定めたのか。たとえ傲慢と言われようとも、私は神への怒りを抑えることができなかった。鬼という存在を創り出した神を恨んだ。

 私には最早、彼女のためにできることは何もないのだろうか。

 その時、ふと顔を上げた視線の先に、あるものを見つけた。

 暖炉の横に飾られた、鈍い光を放つ剣。

 若い頃王国騎士だった祖父のものだった。その役目を終えて数十年経っているが、今でも祖父は、思い出を慈しむ様に大切に手入れをしている。 

 幼い頃、祖父に剣を教わったことがある。私は乗り気ではなかったのだが、身を守る術は必要だと、一通りの基礎を教えてくれた。

 お世辞にも筋が良いとは言えなかった私に、祖父はこう言った。

 

『大切なものを守る戦いの時に、剣の腕がどうかなど、大した問題ではない。必要なのは、必ず守るという強い意志なんだ。それさえあれば、負けることはない』

 

 鬼と戦った者の話は、聞いたことがない。

 過去にはいたのかもしれないが、今も生贄の儀式が続いているということは、少なくとも鬼に勝った者はいないのだろう。

 自分に鬼と戦う力などない。

 それでも、もし彼女を守ることができるのなら。

 

 

 祖父母が起きてくる夜明け前、私はそっと家を抜け出し森へ向かった。祖父母へ短い手紙を残し、鬼を倒すための剣を持って。

 うっすらと日が出てきたにもかかわらず、北の森は暗く、|鬱蒼《うっそう》としている。獣達は鬼を恐れているのか、息を潜めているようだった。鳥の声さえしない。鬼は人しか食べないというが、森の住人達にとっても|忌避《きひ》すべき存在なのだろう。

 生け贄を捧げることによって守られるのは、あくまで村を襲わないという約束のみである。森に入れば、皆等しく鬼の餌となる。故にほとんどの村の者は決して近寄らないが、時折無謀にも木を伐《き》ったり、獣を狩りに入る者もいた。年に数人、行方不明になる者が出るのだが、彼らは鬼に食われているに違いない。

 そして私は今、その者達よりも更に無謀で愚かなことをしようとしているのだ。

 

 しばらく歩くと、木々の向こうに古びた城壁が見えてきた。

 更に進むと、城の全体が見えてくる。

 静寂が神聖な雰囲気を醸し出している森の中で、その古城は異彩を放っていた。城壁は崩れ、門は開いたままになっているにもかかわらず、侵入者を拒む禍々しさがあった。

 門を潜ると、荒れ果てた庭が広がっている。城主がいた頃は、さぞや立派な庭園だったのだろう。割れた敷石や風化した彫刻達が、それを物語っている。

 鬼は城のどこにいるのだろうか。一歩踏み出す毎に、鼓動の音が大きくなる。腰の剣ががちゃりと重い音を鳴らす度に、私の体は強張った。

 長い時間をかけて庭を抜け、ようやく城の入口に辿り着く。長い年月で扉は腐り、崩れていた。

 そっと中を覗き、私は息を吞んだ。

 骨。骨。骨。訪問者を歓迎するためのホールであっただろう広間に、おびただしい数の人骨が山となっていた。ボロボロになったものもあれば、比較的揃った新しいものもある。子供のものと思われる一回り小さい頭蓋骨も、あちこちに転がっていた。

 

「うぐっ……」

 

 猛烈に吐き気が込み上げてくる。私は壁に手をつき、えずいた。胃液がぽたぽたと落ちる。

 骨だけなのが、せめてもの救いだった。広間は開け放されているからか、腐臭もない。

 ただそれでも、これだけの人間がここで無残に食われ、命を落としたという事実は耐え難いものだった。

 そしていずれ、彼女も同じ道を辿るのだ。

 脳裏に浮かぶ彼女の涙に、私は自分を奮い立たせた。そうはさせない。たとえ刺し違えてでも、私は鬼を討たなければならない。

 その時だった。

 

「お前、何だ?」

 

 背後からぞっとするような、ゆっくりとした声が聞こえる。

 私は剣に触れることもせず、呆然と突っ立ったまま振り向いた。

 そこにいたのは、まさしく異形であった。

 背丈は私より少し大きい程度だったが、その肌は血に塗れたように真っ赤だった。無造作に伸びた髪の間から、二本の角が天に向かって伸びている。猪の牙のようだが、ずっと太く、恐ろしい。手足の爪は鋭く伸び、口からは収まりきらない牙が飛び出ている。醜く歪んだ顔、全身を覆う岩のような筋肉。腰に巻いたボロボロの布切れは、よく見ると、豊穣の祭りで生贄が身にまとう装束だった。

 これが、鬼か。

 

「お前、何だ?」

 

 まるで警戒などしていない様子で、鬼は同じ言葉を繰り返した。

 私は我に返り、ようやく剣を抜く。ずしりとしたそれを前に構え、鬼に対峙した。

 だが鬼は動かず、頭だけを傾けてこちらを見ている。

 

「お前を殺しに来た」

 

 深呼吸をしてから発した声は、ひどく震えている。

 自分で言いながら、滑稽だ、と思った。殺す? この鬼を? どう見ても、私が勝つ可能性などない。あの体に刃が通るのか、それすら疑問だった。

 だが、それでも私はやらねばならぬのだ。

 

「うわああああ!」

 

 情けない叫びを上げながら、剣の切っ先を鬼に向けて突進する。

 切りつけるのは到底無理だろう。だが、勢いをつけて真っすぐ急所に突き刺せば、何とか刃が通るかもしれない。

 私がその懐に飛び込む間も、鬼は一切動かなかった。

 

「死ねえええ!」

 

 目をつぶり、心臓めがけて剣を突き出す。

 どん、という衝撃。だが、刃が肉に食い込む感触はない。

 私は恐る恐る目を開けた。

 

「……あ」

 

 私は剣を握ったまま、思わず呆けた声を出した。

 剣先は狙い通り胸元にあった。だが肉には届かず、鬼の太い三本の指が剣に添えられている。

 たった指三本で、私の剣は止められたのだ。

 剣先を摘まんだまま、鬼はその手を思い切り振り払った。

 私の体は剣とともに吹っ飛ばされ、人骨の山に叩きつけられた。

 

「ぐ、う……」

 

 がらがらと崩れ、砕けた骨の上で、全身の痛みに呻き声をあげる。

 地面にへばりつく私に、骨を踏み砕く音を響かせながら鬼はゆっくりと近づいてきた。

 やはり、駄目だった。鬼に適うはずもない。

 

「食えるものなら食ってみろ。俺はお前など、怖くない」

 

 絶望しながらも、私は剣を握り、精一杯の虚勢を張る。実際、食われることに抵抗はなかった。鬼を倒せぬ以上、彼女は食われてしまうのだ。ならば自分も、同じ運命をたどるだけだ。

 鬼は私を見下ろしていたが、屈んで腕を伸ばし、私の右足を掴む。

 そしてそのまま立ち上がると、ずるずると引き摺り始めた。

 てっきりこの場で食われるのだと思っていた私は混乱した。体はうまく動かず、引き摺られるままになっている。ただ、剣だけは離すまいと手に力を込め、鬼の動向をうかがうことにした。

 

「運がいいな、お前」

 

 そう言って鬼は、私を引きずったまま広間を出て、荒れた庭を歩く。砕けた骨でつくった傷を敷石に擦られ激痛が走るが、鬼はお構いなしにずんずんと進む。

 やがて城門までやって来ると、鬼は片手で軽々と私を放り投げた。

 地面に叩きつけられ呻きながらも、何とか顔だけを動かし、鬼を見上げる。 

 

「ごちそうまで、俺、我慢してる」 

 

 そう言って醜い顔をにんまりと歪めると、私が言葉の意味を理解する前に、鬼は城の中へと戻っていった。

 残された私は、呆気にとられたまま遠ざかっていく鬼の背を見つめる。

 何故私は食われなかった?

 ごちそうまでの我慢?

 ごちそうとは、彼女のことか?

 そう気づいた途端、全身がかあっと熱くなるのが分かった。

 鬼は我々人間を、彼女を、ただの肉としか見ていない。許さない。殺してやる。

 だが同時に、冷静に考えている自分もいた。

 御馳走まで我慢をする。それはつまり、豊穣の祭りまで人を食わないということではないか。現に、自分は食われなかった。

 祭りまでひと月。その間一切人を食べなかった鬼が、果たして今と同じ力を出すことができるのか?

 剣の腕を磨き、仲間を募り、腹を空かせて弱った鬼の隙を突けば。

 

 

 数日後。

 教会がある丘に、村の人々が集まっていた。

 

「神に選ばれし者は、ここへ」

 

 司祭の言葉に、彼女が皆の前に立つ。清らかであることを示す白い装束を身に纏ったその姿は、女神のように美しかった。花冠には、彼女が好きなマーガレットがふんだんにあしらわれている。

 穏やかな笑みを浮かべた彼女に、村人達が口々に祝福の言葉を送る。彼女が働いていた鍛冶屋の店主も。教会で彼女を憐れんでいた老女達も。私を憐れんでいた男女も。皆が作ったような笑みを浮かべ、彼女に拍手を送っている。私だけが無表情で、彼女の姿をじっと目に焼き付けていた。

 司祭が彼女に一言を促す。彼女は優雅な動作で一歩前に出ると、小さく礼をした。

 

「皆のためこの身を捧げ、神のもとへ旅立つことができるのを、心から嬉しく思います」

 

 人々の歓声が上がる。

 恐怖など微塵も感じさせない、穏やかな表情と声音だった。彼女の家で聞いた本心は、奥底に深くしまい込まれているようだった。

 一つだけ、と彼女は言葉を続ける。

 

「ただ一つだけ、私の願いを聞いてほしい」

 

 司祭が一瞬、何を言い出すのかと目配せする。だが彼女は気にも留めず、一同をゆっくりと見回し、私に視線を止めた。

 辺りはしんと静まり返り、彼女の言葉を待っている。

 その中で、私と彼女は静かに見つめ合った。

 

「私のことを、忘れないで」

 

 真っすぐな瞳で、彼女はそう言った。

 私は大丈夫だから。そう言われている気がした。

 その眼差しを受け止め、私も微笑んだ。

 

「さようなら」

 

 笑顔の彼女がそう言って深く礼をすると、大きな歓声が上がった。

 世話役の老女二人が彼女の手を取り、ゆっくり教会へと入っていく。

 私はその背中を見つめながら、誰にも聞こえないように呟き、その場を後にした。

 

 

「必ず助けるよ、シャルル」